曹操の子たちの運命、二人は非常に才能があるのに三族も滅ぼされた、もう一人はとても使えず行方不明

【秦朗:曹操に溺愛された凡才、栄光の後に消息不明】
秦朗は新興郡雲中県の出身で、父は吕布の部下・秦宜禄、母は当時の大美女・杜氏です。曹操が吕布を滅ぼした後、杜氏の美貌に惹かれて彼女を側室に迎え、秦朗を養子として引き取りました。曹操は杜氏を極度に寵愛したため、秦朗にも余念がなく、客に対して「世の中に俺のように継子を愛する者はいるだろうか?」と自慢するほど、溺愛していました。しかし、秦朗は曹真の武勇や何晏の学識とは対照的に、才気が平庸 で、曹操のもとで育てられながら、一度も大きな手柄を立てることはできませんでした。曹丕の治世でも役職に恵まれず、ほとんど存在感を示すことができませんでした。曹叡が即位した後、幼少期からの親交があったため、秦朗は驍騎将軍・給事中に任じられ、曹叡の側に近侍し、度々厚い恩賞を受けるようになりました。曹叡が重病になった際には、燕王・曹宇らとともに輔政大臣に抜擢される予定でしたが、中書監・劉放らの反対に遭い、勅令が改められて罷官され、朝廷から追い出されました。その後、秦朗は消息不明 となり、『三国志』や『資治通鑑』にも彼のその後の行方についての記述は一切残されていません。曹操に溺愛され、一時は権力の中枢に近づいたものの、才気のなさから権力闘争の渦に巻き込まれて失脚し、三国の歴史の闇に消えていった凡才の養子として、その名が残されています。
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